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臓器移植法改正A案の問題点

2009年6月18日(木)15:00~衆院において臓器移植法改正案A案が、賛成263票で可決された。

①国民の合意形成がされぬままの死生観・倫理観・道徳観の、一握りの人間による法的決定
 ・国民不在の立法には、大いに危惧を感じる。

②悲劇を生む可能性
 ・虐待児の例を取り上げてる方がありましたが、この点を具体的に精査した方が・・・
 ・判断力や精神的な問題のある親に虐待され、皮膚を含め無制限に臓器等(最大限400箇所)を供出させられる。

親によって命の選択にここまで格差があって良いのだろうか?世間では教育の格差の問題が取り沙汰されているが、このA案によって更に問題が深くなりそうだ。




そもそもこれだけ難しい問題が、ドナーカード1枚で決定されることに私は疑義を抱いている。
最近、現金も株券も登記簿も住民台帳も電子マネー化され、社会保険庁の住民基本台帳も意図的に破棄されていたことを考えると、ドナーカードであっても書き換えられるのではないかと不安になる。

法律で、生態生体移植でない移植がいったん認められると、SFの合成脳のはんらんの主人公であるジョンのように、意図的に脳死状態にされる犠牲者が出現するだろうという予測から目を瞑ろうとするのは、臓器欲しさに自分のことしか考えられない人間の浅ましささえ感じられる。


ips細胞から形成された心臓組織が実用化されるようになれば、どれだけ良いだろうか。

Comment

何のためのA案か 

A案推進派の人には自分の臓器は提供してもいいと考え、かつ、現行法は臓器提供希望者による臓器提供への道までを阻むものだと言う人が多いです。

逆にA案については、脳死をすべて人の死と認めたところで拒否したい人は拒否出来るのだから、それ以外の人に臓器提供への道を開けと主張します。臓器移植が拡大しないのは現行法だけが原因ではないはずなのですが、他の問題は置いておいて、何でもいいから改正して後の問題は今は議論するなという主張です。

今回の改正案は、海外渡航に頼るしかない移植を待つ子の日本の親が海外に臓器を買いにいくことについての世界的なバッシングによって出てきたものです。しかも、今後、日本人への臓器売買の道が閉ざされる可能性も高いので、臓器移植の年齢制限撤廃については改正案が出てもおかしくはないと思うんです。

ただ、それならば、何故D案ではダメなのか?
これは前述した通り、A案を採択する目的に、臓器移植そのものの拡大を目指すというのがあるからだと思います。

つまりは、脳死はすべて死であると認定することで、移植を希望しない者に圧力をかけたい。臓器移植に限定した判定では医療行為の適切性や生命倫理、宗教観の違いなど、個々の問題をクリアする必要があるので、これをすべてなかったことにしたい。議論したくない。だから、脳死をすべて人の死とする必要がある。

しかし、そんな人でも自分の子どもが脳死状態になったら、脳死提供できるかというと難しいという人も多いです。と言うか、それが出来ると言っているの意見を私は今のところ見ていません。

法というのは違法性阻却事由を明確にすることが主な役割で倫理観を問われるものではあっても、道徳的な行為を促すものではありません。臓器提供を待つ者が倫理を犯してでも臓器が欲しいというのは法の縛りを超えた素直な感情で否定し切れないものだと思いますが、倫理そのものを否定するのは法の精神にも生命倫理にも反するものと考えます。

第一、自分が脳死患者の親だったらという想像力が働かない人が多いのに、無責任にヒューマニズムを掲げることは危険であると思います。
  • posted by amin 
  • URL 
  • 2009.06/26 10:10分 
  • [Edit]

A案はすごく気が重い 

amin 様、コメント有難うございます。
「脳死はすべて(普遍的な)死である」とすること自体、かえって多くの矛盾点をかかえることになります。
呼吸器を取り付ける際に本人の意思確認が出来ない同じ条件で、臓器提供がなければ射水呼吸器取り外し事件のように殺人扱いで、臓器提供があれば(殺人が)正当化されるというのは、おかしな話です。
この案には、臓器提供者の意思尊重のかけらさえも感じられません。献体登録http://www.kentai.or.jp/what/02toroku.htmlでさえ、これだけ慎重な取り扱いがなされているのに、A案に賛成する代議士さんがこんなに多いことに改めて驚かされました。

>第一、自分が脳死患者の親だったらという想像力が働かない人が多いのに、無責任にヒューマニズムを掲げることは危険であると思います。

ほんとに危険です。
仮に、私がドナーカードを持たず脳死状態になったとして、医療関係者やコーディネーターから臓器提供の話を切り出されようものなら、私の両親は相手の胸ぐらを掴んで半殺しの目に合わせると思います。

  • posted by Cynthia 
  • URL 
  • 2009.06/29 02:43分 
  • [Edit]

臓器提供当事者の意思の尊重という課題 

時間をあまり置かずに連続投稿になりますが、
本件に関しても審議当初から意見発信してきたので敢えて、強い反論をさせてもらいます

専門家ではないので拙速はあるかもしれないが
個人的に知る限りの疑問への回答をしておくと

・脳死判定時の負荷によって脳死状態に移行する事例報告はない(治療中に原因不明で脳死になるケースは多数あるそうだが)

・脳死判定の対象者は手術対象者と同様にリストバンド管理が行われるはずであり、取り違える可能は低い上に、対象者の確認作業は何重にも渡る上に、脳死判定対象者を取り違える可能性は現実的に想定できない。
まず判定対象者の絶対数が少ない上に、対象者は親族・血縁による確認を必要とするのであって、その段階で取り違える可能性はあまり現実味がない。
 なにより、一般病棟で判定するものではなく、判定マニュアルでは厳重な判定環境が整備されている。
(100%の正確性はありえないが)

・脳幹機能に関してはその定義がまだ未開拓であり、十分な判定規格がない。
十分な判定規格がないことを理由に、脳死臓器提供者の意思を反故にすることの合理性がない(精度の高さは科学的見地の限界があるのであって、確実とは言い切れない)

なお、極めて稀な事例として脳死判定後に意識を回復した事例が2件あることを鑑みれば現代医療の限界を踏まえて判定に十全はない

なお、個別に論説させてもらうと

>①国民の合意形成がされぬままの死生観・倫理観・道徳観の、一握りの人間による法的決定
 ・国民不在の立法には、大いに危惧を感じる。

 理解できなくないが、
日本国憲法以外の国内法全般は代表制である国会・地方議会の立法、もしくは行政立法(閣法)であって、
死生観に関する法律の立法は国会に任せられないという特別扱いは多くの諸法にも適応させる必要性があるが、それは現実的ではない。
つまるところ、臓器移植法だけ国民的議論の必須という言説ならばその特別扱いの合理的説明が必要であり、それは尊厳死・安楽死基準にも通じる問題として慎重に議論される必要性があり、その任を国民が負えるとは思われない。
 更に脳死判定基準などの専門性の領域について国民的議論が出来るものではない
(もっとも、審議時間が足りないという批判は理解できる)

 仮に、国民参加型の立法を望むならば、憲法のような厳格な立法基準を設ける必要性があり、その準備なしに代表制の法的決定を静止することは出来ない。

 更に、仮に国民総意による立法システムを形成するならば憲法41条改正を必要とし、国民投票法附則12条で想定するような国民調査的性質の国民投票に付託する方法しか方法がない。

>②悲劇を生む可能性
虐待児の例を取り上げてる方がありましたが、この点を具体的に精査した方が・・・
 
 虐待児であることが臓器提供の障害になるわけではない。仮に虐待児が想定されるならば、一時的な移植医療行為を中断させるだけであって、その嫌疑が晴れれば移植するに問題はないはずである。
 仮に虐待被害児童としても、司法捜査において十分な証拠収集が終わってから臓器提供することに問題があるとは言い切れない。

>・判断力や精神的な問題のある親に虐待され、皮膚を含め無制限に臓器等(最大限400箇所)を供出させられる。

 児童虐待を行う親権者に供出される畏れは現実的ではない。
そもそも虐待を伺わせるような身体的虐待は医療行為によって判明しやすい上に、虐待による臓器の損傷・劣化を想定すれば、供出目的の児童への虐待は想定できない。
 第一、摘出臓器は親族に優先提供されず、公共財として提供される。
仮に本件を危惧するならば、生体移植にこそ危惧するべきであって、脳死移植ではない。

個人的に別の悲劇を指摘しておくと、
 (15歳以下の)児童の明確な臓器提供の意思にも関わらず、親権者の意思によって臓器提供が行われなくなる可能性がある。
(15歳以下の意思決定権は法的には存在しないが、法律上ではなく、能力的問題で考える)

 15歳以下であろうと判断能力のある児童は存在しえるのであって、15歳児童であっても自己決定権はある。
それを親権者によって制限されることは、自決権からも不適切である。
 更に、ドナーの明確な臓器提供の意思にも関わらず、悪意ある親権者によって臓器提供が行われない悲劇を想定すれば、自己決定権が優先される必要性があり、改正法は適切とは言えない。
 
 そもそも親権者・親族がドナーの意思を反故にするような「臓器移植法」は諸外国でも特殊で、当人の意思決定権が最優先されるのが標準的である。
(諸外国の臓器移植法との比較論は、医学会で精査されているが、政治的に審議対象になっていない)

さて、河野太郎氏への反問への回答を個人的にすれば

>「生きている人に、負荷を与えて、最終的に死を判断する検査をして良いのか?」

生きている当人(脳死判定対象者)が決定することでしかない。
(善悪の問題を当人抜きに論じているだけで国会で決めることではない。)

 つまり、臓器提供の意思を表記した当人の意思が優先されるものであって、死を判断する基準をドナー自身が決めるだけである。
(ドナーは脳死判定を支持した上で臓器提供を行うのであるから)

 河野太郎氏への反問は理解できるが、”検査してはならない”という第三者の判断権利があるとは言えないし、そのような指摘はありえない。

 仮にそれが問題というならば、ドナーの死生観を否定するものであって、自由主義的に言えば私権(内心の自由)の侵害でしかない。
 
 脳死判定基準含めて、臓器提供を忌避するならば、ドナーカードを所持することで問題が解決できる。
 本当にことを言えば、ドナーカードではなく、遺言や家族会議で決定しておくべきことであって、ドナーカード普及はそのような必要性を指摘するものでもある。
 ドナーカード以上に、臓器提供の是非の意思が重要であって、それは可能な限りは有意な方式が望ましく利便性からドナーカードが代替しているだけである。

  そもそも、同法が臓器提供を強制する法律であるならば、違憲性はあるが、提供を忌避することも許される立法である。
 臓器提供を強制させられているという脅迫観念があるならば、それは被害妄想で、同法はそれを強制する法律ではなく、類推的にもドナーカードで意思を示すことを要請しているだけである。

 自分は献血常連であるし、骨髄提供の経験者だが、それらの自己満足的行為が公益性を損じるならば制限されても仕方ないが、明確に公益性を損じるものではなく、自由意志として尊重されて然るべきだろう。

 臓器提供にしても同じことで同法が明確に公益性を損じる立証もなく嫌疑だけで批判するのは科学的ではないばかりではなく、
臓器提供を待つ・提供を希望する側の自由意志を損なうことを理解する必要性がある。


 更に指摘しておくべきだが、同法は「脳死を人の死」と普遍的に規定していない。

同法は、
”脳死臓器移植を希望する、もしくは、家族の提供の同意がある脳死患者の場合”
は、臓器移植医療行為の殺人罪は適用しない、である。
 同法が特別立法(特定期間・状況において適応する法律)であり、普遍性などはない。

 そもそも、法律は「人の死」を定義しない上に、「人の死」は法律上に意味がない。
 簡単にいえば、法律上は「人の死」はなく、権利の主体の消滅でしかない。
つまり、財産権・参政権などの諸種の”権利の消滅”を「人の死」として一般的に認識しているだけに過ぎない。

 法律上の話でしかないが、マスコミ併せて同法の指摘に関しては間違いが多い。
 もちろん、専門的医学問題は厚生労働省部会の管轄であり、自分の知覚する限りではないが、提供しない側の意見だけで評論されている状況は決して好ましいものではない。

つまり、批判は理解するが、
それらは臓器提供希望者・臓器提供待機者の自由意志を尊重できない意見としての公益性・合法性を問い詰める必要性がある。
しかし、反対者側は、それらの希望者の私権を己の道徳観で拘束する言説に終始しているとも言える。

 自由主義社会の自由権として「他人に迷惑をかけない限りは自由」であって、移植医療を希望する側が具体的に第三者に迷惑をかけない限りは、その自由を尊重するべきだが、そのような自由主義のルールは無視されていいわけではない。

 従って、本件に関しては、記事に説得力を感じられない上に、単なる被害妄想という見解は抱ける。
もっとも、感情論としては理解できるが、それが法的素養のある見解とは言い難い上に、エゴイズムであるとは思う次第である。

以上、いわゆる情動面ではなく、法律知識で厳格に論説する限りは、論理的に反対派の主張は近代自由主義原則を反故にするだけではなく、旧臓器移植法の経緯から含めて整合性もない上に、論理的矛盾が幾多も指摘できる。

もちろん、有権者の意見として尊重するべきであるが、反対するならば、具体的に旧臓器移植法が抱える問題含めて妥当な改正草案を提示するべきであろう。

 その経緯においてD案などは科学的見地が不完全であるばかりではなく、単なる政治的力学の産物でしかないなどの醜態を晒している。
 そのような経緯を鑑みるとやはり、反対派の意見は、我儘な独善的倫理観の持ち出しでしかなく、自由主義社会に馴染まないと判断されても仕方ないだろう。

長くなったが、本件に関しては、個人的には可決法を全面的に支持しているわけではない。
 詳細は本ブログを参照してもらいたい。
http://self0507.blog52.fc2.com/blog-entry-1065.html
  • posted by 冥王星 
  • URL 
  • 2009.12/14 15:54分 
  • [Edit]

Re: 臓器提供当事者の意思の尊重という課題 

冥王星さん、コメントありがとうございます。強い反論は期待してましたので・・・
ご指摘により、たいへん勉強になりました。


> ・脳死判定時の負荷によって脳死状態に移行する事例報告はない(治療中に原因不明で脳死になるケースは多数あるそうだが)

*同じ検体が2つあるわけでもないし、多くのサンプル調査での統計的な精査は不可能。だから、「脳死判定時の負荷による脳死状態」があることもないことも証明することが難しいでしょうね。


> ・脳死判定の対象者は手術対象者と同様にリストバンド管理が行われるはずであり、取り違える可能は低い上に、対象者の確認作業は何重にも渡る上に、脳死判定対象者を取り違える可能性は現実的に想定できない。
> まず判定対象者の絶対数が少ない上に、対象者は親族・血縁による確認を必要とするのであって、その段階で取り違える可能性はあまり現実味がない。
>  なにより、一般病棟で判定するものではなく、判定マニュアルでは厳重な判定環境が整備されている。
> (100%の正確性はありえないが)

*がん患者の取り違え騒動からきたトラウマが原因でしょう。仰る通り、取り違える可能性はきわめて低いと想います。


> ・脳幹機能に関してはその定義がまだ未開拓であり、十分な判定規格がない。
> 十分な判定規格がないことを理由に、脳死臓器提供者の意思を反故にすることの合理性がない(精度の高さは科学的見地の限界があるのであって、確実とは言い切れない)
 
*個人的には臓器提供を肯定的に捉えきれないでいますが、自分以外の人間の内(もちろん親族も含んで)、ドナーとレシピエントの(強い)意志確認ができるのであれば、10歳以下の子であってもその意思は最大限に尊重すべきと思っています。ただ、臓器の受け渡しのさいごの瞬間までその意志が確認できるのは、レシピエント側だけなので・・・
 

> なお、極めて稀な事例として脳死判定後に意識を回復した事例が2件あることを鑑みれば現代医療の限界を踏まえて判定に十全はない

*医療の限界については、脳死判定のみならず(生体移植も含めて)臓器移植の限界も提示してほしいのですが・・・抗がん剤やインフルエンザワクチンの効果や副作用の提示が患者にきちんとされてない現状では期待できないでいます。


> なお、個別に論説させてもらうと
>
> >①国民の合意形成がされぬままの死生観・倫理観・道徳観の、一握りの人間による法的決定
>  ・国民不在の立法には、大いに危惧を感じる。
>
>  理解できなくないが、
> 日本国憲法以外の国内法全般は代表制である国会・地方議会の立法、もしくは行政立法(閣法)であって、
> 死生観に関する法律の立法は国会に任せられないという特別扱いは多くの諸法にも適応させる必要性があるが、それは現実的ではない。
> つまるところ、臓器移植法だけ国民的議論の必須という言説ならばその特別扱いの合理的説明が必要であり、それは尊厳死・安楽死基準にも通じる問題として慎重に議論される必要性があり、その任を国民が負えるとは思われない。
>  更に脳死判定基準などの専門性の領域について国民的議論が出来るものではない
> (もっとも、審議時間が足りないという批判は理解できる)
>  仮に、国民参加型の立法を望むならば、憲法のような厳格な立法基準を設ける必要性があり、その準備なしに代表制の法的決定を静止することは出来ない。
>  更に、仮に国民総意による立法システムを形成するならば憲法41条改正を必要とし、国民投票法附則12条で想定するような国民調査的性質の国民投票に付託する方法しか方法がない。

*国民参加型にしようというものなら、国民の側が相当な時間を費やして勉強するようだし面倒なことなんですが、時間をかけて論じてみる価値はあると思います。どうせなら、「生と死の哲学」もいっしょに・・・・
*あと、今回の法案は「射水呼吸器取り外し事件」の問題をうまくクリアーしていることは評価してますw。

 
>  虐待児であることが臓器提供の障害になるわけではない。仮に虐待児が想定されるならば、一時的な移植医療行為を中断させるだけであって、その嫌疑が晴れれば移植するに問題はないはずである。
>  仮に虐待被害児童としても、司法捜査において十分な証拠収集が終わってから臓器提供することに問題があるとは言い切れない。

*それはそうなのですが。虐待被害児童の家庭に第3者が介入することは難しいし、「だからってどうなのよ」という感じはありますが、情的にかわいそうです。

 
> >・判断力や精神的な問題のある親に虐待され、皮膚を含め無制限に臓器等(最大限400箇所)を供出させられる。
>  児童虐待を行う親権者に供出される畏れは現実的ではない。
> そもそも虐待を伺わせるような身体的虐待は医療行為によって判明しやすい上に、虐待による臓器の損傷・劣化を想定すれば、供出目的の児童への虐待は想定できない。
>  第一、摘出臓器は親族に優先提供されず、公共財として提供される。  

*言われてみると、その通りですね。訂正します。


> 仮に本件を危惧するならば、生体移植にこそ危惧するべきであって、脳死移植ではない。
 
*娘に腎臓を提供したことが原因で亡くなった方が近辺にいらっしゃるそうですが、脳死臓器はレシピエントへの生着率が悪いのが問題です。レシピエントに都合が良いことと、ドナーに都合のよいことは反比例するようですね。


> 個人的に別の悲劇を指摘しておくと、
>  (15歳以下の)児童の明確な臓器提供の意思にも関わらず、親権者の意思によって臓器提供が行われなくなる可能性がある。
> (15歳以下の意思決定権は法的には存在しないが、法律上ではなく、能力的問題で考える)
>  15歳以下であろうと判断能力のある児童は存在しえるのであって、15歳児童であっても自己決定権はある。
> それを親権者によって制限されることは、自決権からも不適切である。
>  更に、ドナーの明確な臓器提供の意思にも関わらず、悪意ある親権者によって臓器提供が行われない悲劇を想定すれば、自己決定権が優先される必要性があり、改正法は適切とは言えない。
 
*その通りですw。まぁ、悪意が確認されるかどうかはわかりませんが父がまだ生きていたら(本人は善意のつもり)Cynthiaが15歳以下では全くない状況下でも、臓器提供を申し出た相手をボコボコに・・・まさか、娘が起き上がって父の暴力の侘びをいれるわけにもいかず(笑えません)。人格障害な父を許して下さい。
子供を自分の所有物のように扱われてきた自分の悲劇は繰り返されたくない・・・ですが、生死の関係した状況では人はそんなに強くないです。親や配偶者に対しては冷静になれても、自分の子は特別なんですョ。特に熟慮する時間のない時。病死して何日も経ったわが子の屍を抱いたまま乳を含ませようと何度も試みる(日本ザルの)母ザルから、その子を取り上げることができますか???

 
>  そもそも親権者・親族がドナーの意思を反故にするような「臓器移植法」は諸外国でも特殊で、当人の意思決定権が最優先されるのが標準的である。
> (諸外国の臓器移植法との比較論は、医学会で精査されているが、政治的に審議対象になっていない)

*医学会では「脳死は人の死」とする一方、ドイツでも脳死の定義は議論の分かれているところみたいですね。http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ3-2/morita.pdf#search='脳死判定 基準 ドイツ'


> さて、河野太郎氏への反問への回答を個人的にすれば
> >「生きている人に、負荷を与えて、最終的に死を判断する検査をして良いのか?」
> 生きている当人(脳死判定対象者)が決定することでしかない。
> (善悪の問題を当人抜きに論じているだけで国会で決めることではない。)
>  つまり、臓器提供の意思を表記した当人の意思が優先されるものであって、死を判断する基準をドナー自身が決めるだけである。
> (ドナーは脳死判定を支持した上で臓器提供を行うのであるから)
>
>  河野太郎氏への反問は理解できるが、”検査してはならない”という第三者の判断権利があるとは言えないし、そのような指摘はありえない。

*そこまで、当人の意思決定を重んじるのであれば・・・・
脳死判定基準がこのように未整備であることは、インターネットでの委員会答弁を聞くまで知りませんでした。大衆が難しい内容に対する理解力に欠けるからと言って、事前に詳細の説明を省いて良いと言い切れるものでしょうか? 臓器を提供する代りに詳細な情報を頂く権利があると思います。少なくともドナー登録が受け付けられた時点で、このような(未整備な)脳死判定も説明を受けた上で承知したかどうかを確認する往復文書と約款を自宅に送付されているのでしょうか? 


>  本当にことを言えば、ドナーカードではなく、遺言や家族会議で決定しておくべきことであって、ドナーカード普及はそのような必要性を指摘するものでもある。
>  ドナーカード以上に、臓器提供の是非の意思が重要であって、それは可能な限りは有意な方式が望ましく利便性からドナーカードが代替しているだけである。

*遺言や家族会議ができる状況にあれば、理想的なんですが・・・
実際にはそうでない状況が不幸の原因でもあります。家庭内のもめごとには、首つっこめませんですから。 
 

>   そもそも、同法が臓器提供を強制する法律であるならば、違憲性はあるが、提供を忌避することも許される立法である。
>  臓器提供を強制させられているという脅迫観念があるならば、それは被害妄想で、同法はそれを強制する法律ではなく、類推的にもドナーカードで意思を示すことを要請しているだけである。
>  臓器提供にしても同じことで同法が明確に公益性を損じる立証もなく嫌疑だけで批判するのは科学的ではないばかりではなく、
> 臓器提供を待つ・提供を希望する側の自由意志を損なうことを理解する必要性がある。


*個人の生きかた・死にかたの選択、その表現も自由です。しかし、その自由の担保は脳死者という不特定多数です。特に問題になるのは心臓だが、臓器提供希望者の選択の自由が他者の不幸に依存しているだけに、彼らの意思表示に不快を示す人間がマジョリティなのは否定できないです。

>
>  更に指摘しておくべきだが、同法は「脳死を人の死」と普遍的に規定していない。
> 同法は、
> ”脳死臓器移植を希望する、もしくは、家族の提供の同意がある脳死患者の場合”
> は、臓器移植医療行為の殺人罪は適用しない、である。
>  同法が特別立法(特定期間・状況において適応する法律)であり、普遍性などはない。
>  そもそも、法律は「人の死」を定義しない上に、「人の死」は法律上に意味がない。
>  簡単にいえば、法律上は「人の死」はなく、権利の主体の消滅でしかない。
> つまり、財産権・参政権などの諸種の”権利の消滅”を「人の死」として一般的に認識しているだけに過ぎない。

*キリスト教では、親も兄弟も血の繋がらない他人も、神のもとでは(死んだら)同胞という横並びの位置づけがあるために、死んだ肉体の財産権が自動的に公共のものになるとしても抵抗が少ない・・・のだと考えます。


>  法律上の話でしかないが、マスコミ併せて同法の指摘に関しては間違いが多い。
>  もちろん、専門的医学問題は厚生労働省部会の管轄であり、自分の知覚する限りではないが、提供しない側の意見だけで評論されている状況は決して好ましいものではない。

*郵政民営化の時もそうだが、なぜ法案の原文が国民に提示されないのか不思議だ。マスコミがその原文をもとに意見報道しないのも、それができない理由があるのだろうと邪推する次第である。いっそのこと、医療や科学の進歩のために実験台になって下さいと言われれば、ドナー登録しないわけでもないのに・・・・周り持った言い方には(マスコミに対しても行政に対しても)納得できない。


>  従って、本件に関しては、記事に説得力を感じられない上に、単なる被害妄想という見解は抱ける。
> もっとも、感情論としては理解できるが、それが法的素養のある見解とは言い難い上に、エゴイズムであるとは思う次第である。

*キリスト教を土台とする西洋人の様に血の繋がらない他人を同胞と思えない以上、そこに存在する自分のエゴイズムは否定できない。また、実際に同胞間の移植でさえも免疫抑制剤を必要とするなど固体のDNAが他者として識別するのは、それ自体もエゴイズムなのかもと考える次第である。


> 以上、いわゆる情動面ではなく、法律知識で厳格に論説する限りは、論理的に反対派の主張は近代自由主義原則を反故にするだけではなく、旧臓器移植法の経緯から含めて整合性もない上に、論理的矛盾が幾多も指摘できる。
> もちろん、有権者の意見として尊重するべきであるが、反対するならば、具体的に旧臓器移植法が抱える問題含めて妥当な改正草案を提示するべきであろう。
>  その経緯においてD案などは科学的見地が不完全であるばかりではなく、単なる政治的力学の産物でしかないなどの醜態を晒している。
>  そのような経緯を鑑みるとやはり、反対派の意見は、我儘な独善的倫理観の持ち出しでしかなく、自由主義社会に馴染まないと判断されても仕方ないだろう。

*この手の批判は海外から指摘されているわけで、
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ6/kudo.pdf#search='海外から見た日本の脳死'


 長くなったが、本件に関しては、個人的には可決法を全面的に支持しているわけではない。

* 行政の立場として、まとめなきゃいけないのは理解できますが。
個人的な見解として、どの案も賛同できかねます。
  • posted by cynthia 
  • URL 
  • 2009.12/23 19:13分 
  • [Edit]

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